神童誕生!?
三ヶ尻家次男として誕生。
保育園の時から勉強好きでひらがな・カタカナはマスター。
その向学心は小学校に入っても衰えず、図書館で漢字辞典を読みふけ、夢は自分で漢字を作ることだった。
成績も良く、自分が作った原稿が学校のテストになったこともある。
自分でこういうのもなんだが、・・本当になんだが・・・神童だったのでは!?
しかし、よくある話で小学校高学年にもなるとそのオーラは過去のものに。
この頃から女性に興味を持つようになる。(?)

中学生、思春期ど真ん中
中学校ではバドミントン部に在籍。
私の通った学校では一番華やかに見えたのが入部のきっかけ。
自分の成績が順位・偏差値で現れることになり 久しく無かった向学心にちょっとだけ火がつく。しかし2位から上に行けず悔しい思いをする。
ここから勉強に励み念願の1位を獲得!嬉しかった。。
父親からは「医者を目指せ!」と言われていたが、それよりも女性の方が興味があった。(笑)
この頃生まれて初めて女の子に告白してみる、それがなんとOK!
夢の存在だった彼女がここに誕生。  ・・・わずか4日間の短期政権で終了。
色々な事に興味が有り、年をごまかしてアルバイトをしたりと楽しい中学生生活だった。
医者になる事はすっかり忘れ、進学先の高校は女の子がいる共学を希望(またそれか!)

アルバイトに熱中した高校時代
高校は私立も受かったが、親の財布を心配して都立高に進学。
ここで、共に起業した渡邊ケンタと知り合う事になる。
勉強熱は冷めてしまい、アルバイトばっかりやっていた。
部活は中学からの流れでバドミントン部。
その頃付き合っていた彼女とは、毎朝自転車を2人乗りしながら通学し 友達に冷やかされていたのを覚えている。フフフ羨望ですな。
まぁ振られるんですが。。(なんか女性の話ばかりしているなぁ。。。)
ちなみに高校時代の友人の父親が、税理士をやっており 理由は分からないが、眩しく見えたのを覚えている。
思い返せば、これが税理士を目指すきっかけだったようだ。
渡邊ケンタしかり、悪友も増え楽しく遊んだ高校時代だった。
3年生も終わりに近づき、いよいよ受験だが勉強もせず当然のように、惨敗に終わる。

目標無き浪人1年目
めでたく浪人生活突入となったが、まだふわふわしていて 人生の目標が無く、勉強の意識が高まらなかった。
アルバイトは相変わらず熱心に行っていた。
牛乳販売のアルバイトでは訪問先のOLさんとダブルデートをし、喫茶店のアルバイトでは楽しく接客も学び、充実していた。
1年目の浪人時代は受験すらせずに終わる。
浪人生とは言えないなぁ。

見返してやる!
惰性で勉強を続けていた簿記1級の試験に落ち、当時交際していた彼女に振られたことも重なり、急激に自分が惨めに思えてきた。
いい刺激になったんだと思うが、そこから「税理士になって見返してやる!」
と目的意識を持てちゃんと勉強を始める。
振られた女性の「きれいになって見返してやる!」みたいで女々しい動機。。
浪人生活2年目はちゃんと受験。結果は合格。

1日10時間勉強!エンジンがかかった大学時代
大学に入り、経済的な都合から働きながら勉強をすることになる。
奨学生選考にも受かったので、つらいと思える事は無かった。
授業は簡単過ぎてつまらなく、会計ゼミでは切磋琢磨して自分の能力を上げたかったが、周りのモチベーションが低く馴染めなかった。
独学で勉強を続ける事にする。この頃は人が変わったみたいで、1日10時間の勉強をした。
3年生時に初めて税理士試験を受験することになる。
税理士試験はいくつかの項目それぞれに試験が有り、それを何年間もかけて一つずつ取っていくという試験である。
初年度の受験科目は簿記論、財務諸表論、固定資産税である。
手応え充分で、合格。
次の試験までまた勉強する生活をリスタートさせる。
税理士に限った事では無いが、数年に及ぶ試験で取る資格は、目標を明確に持ち、その気持ちを持続できるかどうかが最大のポイントだと思う。

税理士事務所で仕事と勉強の毎日
大学も卒業し、勉強しながら勤める働ける税理士事務所を探し、就職する。
現場で覚える事の多さ、一癖も二癖もある経営者の方々とのコミュニケーション。
勉強しながら、仕事を覚えるというのは甘いものでは無かった。
何度か試験も失敗し、またやり直しかと思うと。その都度心が折れかけた。
ただ周りの方々のサポートも有り、しばらくすると楽しく仕事&勉強の日々を再開することができるようになった。

それから、しばらくして無事税理士の試験全てに合格することができた。
一人では取れなかった資格だと思う。支えてくれた皆さんに感謝している。

顧客愛の目覚め〜起業
今まで常にバイト&学校のように、二足のわらじを履いていたが 仕事1本に集中できる環境になり、俄然燃えて取り組むようになる。
勤めていた税理士事務所の所長には沢山の業種を担当させて頂き、様々な業種毎の知識を得る。顧客には損をさせないように、様々な角度から、節税や社会保険の制度利用を含め顧客に損をさせない方法を検討する毎日を送る。

顧客とは良く話し合い、利益や税金だけでなく、それぞれの数字の持つ意味を説明し、理解してもらうように努めた。

ただ抱えている顧客には赤字の企業も多く、それを解消出来ない自分がもどかしく感じるようになる。
「数字知ってるんだからもっとアドバイスしてよ〜」と言われても マーケティング含め、具体的な対策を作れないでいた。

ホントに顧客が大事で、なんとかしたい!でも自分一人ではどうしようもない。
そんな思いが募り、企業戦略や、マーケティング、企画広告を通して、同じような考え方を持つ、渡邊ケンタ、渡邊康太に声をかける。

彼らは顧客の声をよく聞いた上で現状を理解し、「サポート」していた。
「やっぱりこれだ!」と、私は確信した。
それぞれの守備範囲は違くても、思いは同じで一緒に起業する運びとなった。

顧客に喜んで頂きたい。その一心で。
 

 

代表取締役
税理士 三ヶ尻 忠敬
■ ワーキングポリシー
すべてはお客様のために
それはすなわち自分達のため

■ 座右の銘
一期一会

 

学者顔で男らしく誕生?
東京都荒川区にて、渡邊家の長男として誕生。
3200グラム超の丸々太った健康体。
ケンタ=健太という名前の由来は「高倉健」と「菅原文太」を併せたという説があるが、男らしさという点では期待外れだったという可能性が高い。
近所のクリーニング屋のおじさんから 「この子は賢い顔をしている。学者顔だね」と言われた事があったらしく母はよくこのエピソードを披露していた。
ご近所さんのリップサービスとしか思えないのだが 母には、良く当たる占い師位の影響力があったようだ。
他人の子供に感想述べる時は、言葉を選んで言おうと思う。

3歳の時に荒川区の都営住宅から、新興住宅地の松戸市へ移住。
ドーナツ化現象で見れば、ドーナツの一番おいしい部分にあたる。
27歳で結婚→29歳で一子誕生→32歳で郊外にマイホーム購入。
首都圏に住む、団塊の世代の平均的な挙動をみせる父であった。

自我の目覚め
幼稚園での記憶としては、まあ人並みにスカートめくりに没頭し 一日1回はジャングルジムの決まった場所で、おしっこし、時折、熱を出して自宅に搬送される普通の子だったと思う。
小学生低学年時に「ひょうきん」というジャンルで クラスのポジションを得ようとする自我が発現する。
小学4年生に、かのファミコンが登場されるまで、 かくれんぼ、高鬼、色鬼(漢字で書くとなかなか怖い)、メンコなどと昭和の子供全開で遊んでいた。
ファミコン登場以降はいかに親の目を盗んでファミコンをするかに命をかける。
一日30分までルールを掲げる家庭が多かったので、30分ごとに友達の家を回る「ファミコンジプシー」が日課になった。
ごまかす事、知恵を使う事など、多少すれたのもこの頃かもしれない。
家庭毎の法律を巧みな嘘とフットワークでかわす。
「ばれなきゃいい」。ふとライブドア事件を思い出した。
この頃は一年に1回は好きな人がいた気がする。気の多いガキだ。
勉強をした記憶は無いがテストでは常に満点に近かった。

悩み多き中学時代
中学校では、テストの結果が発表されるという方式になり、初めて競争意識といものが芽生える。
朝に予習・帰宅後復習・その合間に野球部の朝練・夕練という模範的な中学生生活を半年過ごす。
半年経ったある日疲労困憊でふと学校を休む。
その日以来なんとはなしに野球部に顔を出せなくなる。
野球部という小さなコミュニティが自分の全てだったので学校に行かなくなる。
練習法・教育法に疑問を持っていた両親が悩んだ結果 1ヶ月後に中央区の中学校に転校をすることになる。
転校先では「田舎者だとなめられちゃ」いけないという気持ちで日々臨んでいたが都会の学校はいたって他人に無関心だった。
この頃は学校帰りの遊び場が「日本橋」「銀座」「人形町」「秋葉原」と およそ中学生らしくない場所になっていた。
中学2年からは絵画部に所属。
入部の動機は小学校の時の担任が「絵が上手いね」と褒めてくれたから。そんなもの。

男臭い高校時代
高校は都立校に進学。
地区では一番の進学校で勉強に燃えている連中ばかりだった。
中学の時に懲りていたので、勉強は程々であきらめる。
アルバイトに夢中になり「新聞配達」「ハンバーガーショップ」「コンビニ」「引っ越し業」「缶詰工場」「ペンション」など様々な職種を経験。
なかでも地元の友人と働き始めた「ハンバーガーショップ」では店長の「この粉かけないとうちの肉不味くて食えないから。アハハ!」発言など色々な社会勉強を在籍3日間で学習。
この頃に今も付き合う事になる友人達と出会う。
弊社代表の三ヶ尻は、その頃髪をやたらかき上げるという悪癖があり鬱陶しく見ていたのを覚えている。
高校時代に熱くなったのは「パチンコ」「麻雀」などで女性との接点は殆ど無かった。
煙を吸ったり、校内でのすき焼き会など、男同士の思い出作りに夢中で成績は悪かった。

フリーターのはしり
大学進学には興味が無く、また人生の目標も無く高校卒業以降はパチンコ屋の店員などをして過ごす。
給料は良かったが「誰にでもできるし、代わりはいくらでもいる仕事だな」と段々感じ始め、退職。手に職をつけて「自分しかできない仕事をしよう」と強く思う。
将来何をやりたいの?という長年の課題に、初めて答えが生まれようとしていた。
この頃は、とにかくお金の有る限り遊びまくったという記憶が強い。
未だに付き合いのある兄貴分にも出会い、充実していたとも思う。
余談だがこの人は、人付き合い・処世術・部下への教育法・ユーモア・カリスマ性という点で 独特且つ天才的な能力を持っていて、当然の如く出世し、現在では数店舗を束ねる店長になり 趣味が昂じてデザイン業・DJ業を兼業で始めるなど面白い人物である。

やりたい事発見
退職後デザインの専門学校に入学。
周囲より年長だった為「けん兄」などという恥ずかしいニックネームで呼ばれ 人生初の兄貴キャラを演じるはめとなる。
目的を強く持った連中も多く刺激のある2年間だった。
ちなみに仲間内十数人で最後までデザイナーをやれたのは私だけだった。
待遇・過酷な労働時間など聞こえより大変なジャンルかもしれない。

広告代理店就職
卒業後、広告代理店のデザイナーとして入社。
1年目から「仕事下さい!」「バリバリやります」と数年来くすぶっていた思いを爆発させる。
空回りの多い時期だったが、理解のある上司・先輩に囲まれ楽しく従事。
企画会議・マーケティング論・広告手法・コピーライティング・Webを含めた様々な広告媒体など、実践の場でどんどん吸収。
億単位のプロジェクトばかりで、広告実践論を磨くには最適だったと思う。

くすぶり〜起業
順調に役職も上がり、かなりの仕事を任せてもらうようになりクライアントとのコミュニケーションも増える。
ここから、広告代理店としての壁にぶち当たり始める。
広告代理店はクライアントの商材を預かり、より売れるように告知する。
この単純な至上命題に日夜苦労する。 これを繰り返す。
「こりゃ売れないよ〜」っていう商材もごまかし・誇張など含め様々な手法を使ってキャンペーンを行っていく。
保身の為に「市場からみて厳しいかもしれません」とは言うが「少し商材を見直してみませんか?」とは言わない。これが広告代理店のスタンス。

「クライアントが本当に望んでいる事に応えられているのか??」
「消費者に喜んで自分の商品・サービスを受けてもらう事」
これが本当にクライアントが望んでいる事なのではないか?

「途中で喧嘩しても、伝えなければいけないことを伝え、一緒にゴールに向かって走りたい」
この事が頭から離れられなくなった頃、退職・独立を意識する。

退職後、コンサルティング+広告実践の会社を立ち上げる。
クライアントとは出来高制で契約。徹底的にクライアントの為に必要なことを実践。
クライアントには小規模店舗が多く、予算が無い・広告の知識が無い・自分の店のポジショニングが分からないなど 予想通りの問題点が多く、現状確認から丁寧に実践・指導。
競合店調査の為3日デジカメ片手に歩き回ったり、スタッフの教育をしたり、システムを変えたり、メルマガ発行の為のインフラ作りをしたり とにかくなんでも行う。
何度もクライアントと話し合いながら実践。
大きな視点で、必要な事を行えば売上は上がるという事を結果で実感。
さらにたくさんのクライアントに喜んでもらいたく、同じ志で、高い能力を備えたパートナーと共に現在の会社を立ち上げる事になる。
 

 

「ごちから」千住店店主
渡邊 ケンタ
■ ワーキングポリシー
お金はお客様の笑顔の数

■ 座右の銘
志の固き人は幸いなるかな
汝は苦しむ
しかれども永くは苦しまず
また謝って苦しまず
   

徹底的に落ち着き無し
千葉県松戸市にて、渡邊家の次男として誕生。
渡邊ケンタとは兄弟である。
兄が健太で弟が康太。二人で「健康」。・・・なるほど親父。
兄が書いていなかったので書くが、
渡邊家は鬼の腕を落としたエピソードで知られる渡邊の綱(わたなべのつな)を祖先に持つ由緒正しき家系である。
どこの渡邊家でも言われているのだろうと思う。
保育園・小学校共に地元に通い、
小学校の通信簿では6年間「落ち着きがありません」と書かれ続けるせわしない小学生だった。
担任が同じ方だったわけでは無いのに、6年間ずっと落ち着きがないように見えるとは、筋金入りだったようだ。

スポーツ大好き中学生
中学校では小学生時代にかじったサッカーをやりたかったのだが、あいにくサッカー部が無く、テニスを始める。
持ち前のガッツ(?)が認められて2年生時にはキャプテンに指名される。
都大会にも出場し、なかなかの腕前なのではと勘違いする。
思えば、スポーツでの人生のピークはこの辺りだったのか?
いやいやまだまだ〜
実はここ数年フットサルに夢中です。
大好きで大好きで、頑張っているのですが上達の気配がしないのです。
下手の横好き?好きこそものの上手なれ?どっちが正解なのだろう?

ビーバップハイスクール
高校は絵に描いたような不良高に入学。不思議と毎日が刺激的だった。
喧嘩や周囲の学校との対立は当たり前で、日常的に校舎の窓から消しゴム・唾・お菓子・しいては椅子まで降ってくるといった荒れ具合。。
こんな連中と、普通にコミュニケーションをとっていた自分がすごいと思う。
ここでの魅力は人間力。
生徒も癖があれば、それを束ねる教師も一癖も二癖もあった。
まず教師達の経歴が面白い。
ボディービルダー・中国拳法の世界大会出場者・日体大の元応援団長・元トラックの運転手etc..
あきらかに何かの目的で集められたエキスパート達。。。。
とにかく熱い人達だった。

3年生時の体育祭で、普段まとまりの無い私達のクラスが対抗戦で1位になった。
熱血担任が一番喜び、翌日の昼食をクラス全員の30人分ごちそうしてくれた。
そして一言
「昼食後ホームルームだからさぼるなよ〜ガハハ!」
ところがここで素直になれないのが、ここの生徒。
なんと半数以上が午後のホームルームをさぼった。
翌日、目を赤くした担任が裸足で玄関で待っていて、全員を正座させ、「人の気持ちが分からない奴はクズだ〜」と泣きながら順番に殴りつけた。
昨今、学校での体罰が問題視されているが この体罰は心に効いた。殴ってくれてありがとう!と今も心から思ってる。
ここから人の気持ち・人生など色々考えられるようになった気がする。
進路も真剣に考え始めた。

余談だがこの熱血担任に、最近都内でばったり会った。
うれしくて、このエピソードに対する感謝の気持ちを伝えたのだが、先生は一言「そんな事あったっけ? ガハハ!」

ビジネスの勉強!?
ビジネス系の学校に進学し、経営、簿記、販売などを専攻。
ここで取れる資格は全て取得。
俺ってやれば出来るんだなぁと、初めて思えた時期でもあった。
しかし今思えば、勉強はあくまで資格を取るための勉強で、社会人になってから役に立たない内容。資格の為の勉強。資格って何だろう?

イケイケ営業マン
卒業後就職したのは宝石販売業。
きっかけは待遇の良さと、人と話す仕事がやりたかったから。
ここでは成績がなにより求められる、実力主義。
個人戦、グループ戦、支店戦、支社戦など、とにかく様々な形で競い合う仕事だった。
新人にしては態度がふてぶてしかったせいか、どこのグループでも煙たがられ 同じような臭いのする先輩と、厄介者2人だけのグループを組む事になる。
この先輩は冷たさを感じる人だったが、独自の接客、話術などとても魅力的な人だった。
会社からのアウトロー的な扱いが、不思議と気に入り仕事も楽しくなる。
元々自信もあったが、私個人は入社3ヶ月で約1000人中3位の成績をあげ、先輩と2人のグループは、6人のグループにも売上で負けなかった。
その後も成績は優秀で、給料もかなりの金額をもらうことになる。
今思えばゲーム感覚に近かったのかもしれない。

ヘッドハンティング〜転落
ある日、先輩と2人揃って系列会社からヘッドハンティングをうける。
待遇も良ければ、私達の「課」も設けてくれるという好条件。その話にすぐ乗る。
私達は「最強の営業集団」を作りたかったので、退社後、準備期間をもらい即戦力になるスター営業マンを探し、引き抜く為に、訪問販売の会社に入社した。
私達の力量を見せ、納得させ引き抜くためには、彼ら以上の成績を上げる必要がある。
成績が全ての世界なので、必死に彼ら以上の成績を上げ、順調に引き抜くことに成功した。
ところが数名を引き抜いた頃、引き抜き行為がばれて、二人揃って解雇となる。
さらに、新たに作るはずだった「課」の話も、退社先の社長にばれて、系列会社同士のもめ事になってしまい白紙になった。
今思えばこの話は破談になって良かった。筋が通らない事をしていた自分を恥ずかしく思う。。

こうして、次の日から働く場所が無くなった。。あれれ?これって無職ってやつか?

瞑想→迷走
思いもかけず無職となり、色々考える時間を得た。
人生のこと、家族のこと、仕事の事。。。
いままでがむしゃらにやってきた仕事にも疑問が出てきた。
「仕事って何だろう?」「お金って何だろう?」「人生って何だろう?」
今まで、真剣に父と話をすることは少なかったが、この頃は色々な事を相談した。そして、父と一緒に働くことを決意する。
父は、小さな広告企画制作会社を営んでおり、私のポジションはクライアントと制作現場を結ぶ営業職。
入社時、仕事量の減少・単価の下落で、会社の経営状態は楽では無かった。
しかし、前職での実績から立て直す自信満々で入社する。

しかし、ここからしばらく迷走が始まる事になる。

まずこの業界の受注の仕方に面食らった。
「広告やりませんか?」と言って仕事が出てくるわけでなく 完全に受け身のスタイル。ただひたすらクライアントからの仕事を待つ。
仕事が来てからも、定められた納期に向かって、寝る間も惜しんで仕事する。
数少ないクライアントと喧嘩すれば、経営難に直結するこの事態。
これじゃ面白く無い!じり貧だ!
そこからビジネスモデルを変える為、企画の持込やら、新規クライアント発掘など様々な事を行ったが、芳しい実績を上げられなかった。。
「何故なんだろう?」「どうすればいいんだ!」
父との考え方にも開きが出てきて、社内でも素っ気ない態度を取るようになる。
何も変えられない自分が信じられず、泣き、悩む日々が続き、20代にして胃をやられ眠れなくなる始末。
それでも、足りない物、新しい気づきが欲しくて勉強しまくる。
1ヶ月に23冊ビジネス書を読んだり、ビジネス著名人の商材を購入したり、企画書書きまくったりと、とにかくあがいた。。

気づき
そんなある日、ふとしたことから、考え方が変わる。
何気なく見ていたTVでイチローがインタビューを受けていた。
「調子が悪くても原因は分かっている。問題ない。」
はぁ〜精神力が強い人は違うなぁ〜と思ったが、ハッと別のことが頭に浮かぶ。
「この人は視点が違うのではないだろうか?自分のことを客観的、俯瞰で見る能力があるのでは?」

「視点」「客観性」「俯瞰」・・何か霧が晴れていく感覚になる。
マーケティング論を自分自身で体感できた瞬間だった。

加速
今までは小手先で短期間で利益追求に走っていなかったろうか?
もっと大局的に見て、これまで勉強したこと、経験を組み合わせていけば もっと楽しいビジネスの答えが出るのでは?
そもそも「現在地」「目的地」すらあやふやで走り出していたんだから、到達出来るはずもなかった。

そこから焦らず、「現在地」「目的地」の策定から始めた。
考え方がスリムになったお陰か、今まで学んだものから自分に必要なツールを すぐ取り出せるようになり、自分なりに改良することまで出来るようになる。
「記録」「整理」「手段」「方法」「スケジュール」「準備」「実践」 これらの気づきを、自分の為に勉強も兼ねてブログでまとめ始める。
「自分探し」と位置づけて。
そして次に、他人の意見も得るためにブログで記録した内容を加工し、“待ち”の媒体であるブログから、“攻め”の媒体であるメールマガジンで多数の人に向けて発行する流れとなった。
ここで、自分から行動する大切さと人を動かすコピーライティング力を試すこともできた。

悩んでいたはずの私が、40代の管理職の方から相談を受けたり、親子程歳の離れた55歳の方からお礼のメールを頂いたりと、悩みを解消されて感謝される立場になっていた。。

やりがい発見
自分の為にやっていた「自分探し」が他の人の役に立つのは素直に嬉しかった。

当初の目的通り、「自分探し」をビジネスに結びつけるうちに コンサルティングという役割、考え方に自然に昇華していった。

まず手始めに知り合いの店を預かり、丁寧に理論立てて 顧客整理〜企画〜実践を行った事で、年間売上を前年比110%を達成した。
それからは様々な事・店舗を 「現状確認」→「目標設定」→「仮説」→「実践」→「検証」→「確立」していった。
特別な事や、奇策を用いた訳ではない。
店舗などを中心に扱って気づいたのが、当たり前のことを当たり前に出来ていないこと。
まず自分の店の「現在地」を知らない。
どんなお客様を相手にしてるか、どれが売れているか、競合は何か、etc..
それと自分の店の「本当の財産」を知らない。
なんてもったいないんだろうと思った。
それらを伝えること、導くことを生業にしたいと、心から思えた。
お客様が喜び、私も喜ぶ。お客様が儲かり、私も儲かる。最高の仕事だ!

その為には、自分に足りない能力を補う人間がいないといけない。
「数字を楽しむ税理士」三ヶ尻忠敬、「広告・販売戦略オタク」兄ケンタとでないと理想の仕事が出来ないと思い、個々にやっていた彼らと合流し コンサル・ネクスト会計事務所 を設立する運びになった。

これで当初の目的でもあった、父との会社のビジネスモデルを変える事に着手できるようになり
結果、弊社の1クライアントとして、責任を持った立場で付き合う道を話し合い、選んだ。
仕事の種類・クライアントの選別や(断る仕事を増やした) 単価ごとの仕事時間の配分、外注先の絞り込みなどを積極的に行うことで 父の会社の利益を前年比164%を達成。売上高は前年比149%。(2006年)
 

 

「ごちから」広報
渡邊 康太
■ ワーキングポリシー
チャレンジ回数思考

■ 座右の銘
・自分で見つけた答えだけが
 自分の答えになる。
・理想の相手は探すのではなく
 創るものである。

■ 善悪の判断基準
自分の子供に
胸を張って言える事?を
常に自問自答
   
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